
2015年06月03日
1484年 細川高国(ほそかわたかくに)誕生
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1484(文明16)年の出来事

1484年 細川高国(ほそかわたかくに)誕生
細川高国(ほそかわたかくに)
1484年、畿内・四国地方の一部を支配していた細川家の一族・野州家の細川政春の子として誕生。
???年、細川氏嫡流・細川政元の養子となる。高国は細川澄之・澄元の後に養子になったようで、政元にとっては3番目の養子であった。
1507年、百々橋の戦いに細川澄元方として出陣。政元が澄之派の重臣に殺されると、澄元は澄之討伐の兵を挙げた。この時高国は、澄元を支持し澄元の家督相続を承認した。
1508年、細川澄元を京から追放。京を追われていた前将軍・足利義稙を擁立する大内義興と手を結んで、11代将軍・足利義澄と澄元を京から追放。
1508年、細川家の家督を相続。山城、摂津、丹波、讃岐、土佐の守護となり管領に就任。
1509年、如意嶽の戦いにおいて細川澄元軍に勝利。
1511年、船岡山の戦いにおいて細川澄元軍に勝利。大内義興とともに幕府の実権を握る。
1520年、等持院表の戦いにおいて細川澄元に勝利。
1526年、神尾山城の戦いにおいて柳本賢治軍に敗北。
1527年、桂川原の戦いにおいて細川晴元軍に敗北。高国から離反した柳本賢治と澄元の遺児・細川晴元らの連合軍に敗北し京から逃亡。
1531年、天王寺の戦いにおいて細川晴元軍に敗北。
1531年、摂津国尼崎で自刃。


1484年 細川高国(ほそかわたかくに)誕生
細川高国(ほそかわたかくに)
1484年、畿内・四国地方の一部を支配していた細川家の一族・野州家の細川政春の子として誕生。
???年、細川氏嫡流・細川政元の養子となる。高国は細川澄之・澄元の後に養子になったようで、政元にとっては3番目の養子であった。
1507年、百々橋の戦いに細川澄元方として出陣。政元が澄之派の重臣に殺されると、澄元は澄之討伐の兵を挙げた。この時高国は、澄元を支持し澄元の家督相続を承認した。
1508年、細川澄元を京から追放。京を追われていた前将軍・足利義稙を擁立する大内義興と手を結んで、11代将軍・足利義澄と澄元を京から追放。
1508年、細川家の家督を相続。山城、摂津、丹波、讃岐、土佐の守護となり管領に就任。
1509年、如意嶽の戦いにおいて細川澄元軍に勝利。
1511年、船岡山の戦いにおいて細川澄元軍に勝利。大内義興とともに幕府の実権を握る。
1520年、等持院表の戦いにおいて細川澄元に勝利。
1526年、神尾山城の戦いにおいて柳本賢治軍に敗北。
1527年、桂川原の戦いにおいて細川晴元軍に敗北。高国から離反した柳本賢治と澄元の遺児・細川晴元らの連合軍に敗北し京から逃亡。
1531年、天王寺の戦いにおいて細川晴元軍に敗北。
1531年、摂津国尼崎で自刃。
2015年06月02日
1484年 日記『蔗軒日録(しょけんにちろく)』記述開始
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1484(文明16)年の出来事

1484年 季弘大叔が日記『蔗軒日録(しょけんにちろく)』記述開始
季弘大叔(きこうだいしゆく)が、晩年過ごした堺の海会寺(かいえじ)で記した日記。
彼自身の信仰や日常生活、東福寺を中心とする仏事・行事、応仁の乱後の畠山氏や京都の禅寺・禅僧の動向、堺の町や会合衆(えごうしゆう)・遣明船のようす、連歌師宗祇・琵琶法師城菊ら文人との交遊などが記されている。
季弘大叔(きこうだいしゆく)
臨済宗聖一派の僧


1484年 季弘大叔が日記『蔗軒日録(しょけんにちろく)』記述開始
季弘大叔(きこうだいしゆく)が、晩年過ごした堺の海会寺(かいえじ)で記した日記。
彼自身の信仰や日常生活、東福寺を中心とする仏事・行事、応仁の乱後の畠山氏や京都の禅寺・禅僧の動向、堺の町や会合衆(えごうしゆう)・遣明船のようす、連歌師宗祇・琵琶法師城菊ら文人との交遊などが記されている。
季弘大叔(きこうだいしゆく)
臨済宗聖一派の僧
2015年06月01日
1484年 国語辞書『温故知新書(おんこちしんしょ)』完成
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1484(文明16)年の出来事

1484年 国語辞書『温故知新書(おんこちしんしょ)』完成
近江の官司・大伴広公(おおとものひろきみ)が国語辞書『温故知新書(おんこちしんしょ)』を完成。
いろは順が一般的であったこの時代に五十音順を採用した最古のものといわれている。


1484年 国語辞書『温故知新書(おんこちしんしょ)』完成
近江の官司・大伴広公(おおとものひろきみ)が国語辞書『温故知新書(おんこちしんしょ)』を完成。
いろは順が一般的であったこの時代に五十音順を採用した最古のものといわれている。
2015年05月29日
1484年 吉田兼倶が斎場所大元宮を造営
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1484(文明16)年の出来事

1484年 吉田兼倶が斎場所大元宮を造営
神道家・吉田兼倶(よしだかねとも)が吉田神社(京都府京都市)に八百万の神をまつる唯一神道の信仰の中心地として斎場所大元宮(さいじょうしょだいげんきゅう)を造営した。
この造営に関して、日野富子は100貫文という巨額の寄進を行なった。


1484年 吉田兼倶が斎場所大元宮を造営
神道家・吉田兼倶(よしだかねとも)が吉田神社(京都府京都市)に八百万の神をまつる唯一神道の信仰の中心地として斎場所大元宮(さいじょうしょだいげんきゅう)を造営した。
この造営に関して、日野富子は100貫文という巨額の寄進を行なった。
2015年05月28日
1484年 堺の自治組織『会合州(えごうしゅう)』誕生
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1484(文明16)年の出来事

1484年 堺の自治組織『会合州(えごうしゅう)』誕生
会合州(えごうしゅう)
港町・堺(大阪府堺市)で、豪商らによる自治組織『会合州』が結成された。


1484年 堺の自治組織『会合州(えごうしゅう)』誕生
会合州(えごうしゅう)
港町・堺(大阪府堺市)で、豪商らによる自治組織『会合州』が結成された。
2015年05月27日
1484年 足利義尚が日野富子と和解し小川御所に移住
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1484(文明16)年の出来事

1484年 足利義尚が日野富子と和解し小川御所に移住
室町幕府9代将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)が母・日野富子(ひのとみこ)と和解し小川御所(おがわのごしょ)に戻る。
足利義尚に関する記事
※1473年 足利義尚が元服し、室町幕府9代将軍に就任
※1482年 足利義尚が伊勢貞宗邸から小川第(こがわだい)に移住
※1483年 足利義尚が伊勢貞宗(いせさだむね)邸に移住


1484年 足利義尚が日野富子と和解し小川御所に移住
室町幕府9代将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)が母・日野富子(ひのとみこ)と和解し小川御所(おがわのごしょ)に戻る。
足利義尚に関する記事
※1473年 足利義尚が元服し、室町幕府9代将軍に就任
※1482年 足利義尚が伊勢貞宗邸から小川第(こがわだい)に移住
※1483年 足利義尚が伊勢貞宗(いせさだむね)邸に移住
2015年05月26日
2015年05月25日
1484年 浦上則宗が主君・赤松政則の家督譲渡を幕府に申請
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1484(文明16)年の出来事

1484年 浦上則宗が主君・赤松政則の家督譲渡を幕府に申請
備前の守護・赤松政則(あかまつまさのり)は播磨をめぐり、但馬守護の山名政豊と戦っていたが、1483年12月の戦いで大敗。これに失望した家臣たちが謀反を起こし、主君・赤松政則を、家臣の浦上則宗(うらがみのりむね)が追い出した。
浦上則宗は赤松政則の守護職と家督の廃位し、新たに赤松分家の有馬慶寿丸(ありまけいじゅまる)を家督相続者とすることを幕府に申請。
赤松家内紛に乗じて、山名政豊に襲撃され、浦上則宗らは追いつめられる。前将軍・足利義政が仲介に乗り出したこともあり、赤松政則と浦上則宗は和解。


1484年 浦上則宗が主君・赤松政則の家督譲渡を幕府に申請
備前の守護・赤松政則(あかまつまさのり)は播磨をめぐり、但馬守護の山名政豊と戦っていたが、1483年12月の戦いで大敗。これに失望した家臣たちが謀反を起こし、主君・赤松政則を、家臣の浦上則宗(うらがみのりむね)が追い出した。
浦上則宗は赤松政則の守護職と家督の廃位し、新たに赤松分家の有馬慶寿丸(ありまけいじゅまる)を家督相続者とすることを幕府に申請。
赤松家内紛に乗じて、山名政豊に襲撃され、浦上則宗らは追いつめられる。前将軍・足利義政が仲介に乗り出したこともあり、赤松政則と浦上則宗は和解。