
2015年01月26日
1470年 蓮如が親鸞聖人絵伝を真宗寺に贈る
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1470(文明2)年の出来事

1470年 蓮如(れんにょ)が親鸞聖人絵伝(しんらんしょうにんえでん)を真宗寺に贈る
親鸞聖人絵伝(しんらんしょうにんえでん)
鎌倉時代に浄土真宗を興した親鸞の生涯を書いた絵巻。
詩の部分は『御伝鈔(ごでんしょう)』、絵の部分は『御絵伝(ごえでん』と呼ばれる。
親鸞の子孫であり本願寺の僧である蓮如(れんにょ)が、文明2年(1470年) 再興した真宗寺に『親鸞聖人絵伝』を贈る。
⇒親鸞聖人絵伝 堺市指定有形文化財
談義と絵解き(談義と「談義本」/「親鸞聖人絵伝」(光照寺本)の成立/「蓮如上人絵伝」(芳沢寺本)の絵解き)


1470年 蓮如(れんにょ)が親鸞聖人絵伝(しんらんしょうにんえでん)を真宗寺に贈る
親鸞聖人絵伝(しんらんしょうにんえでん)
鎌倉時代に浄土真宗を興した親鸞の生涯を書いた絵巻。
詩の部分は『御伝鈔(ごでんしょう)』、絵の部分は『御絵伝(ごえでん』と呼ばれる。
親鸞の子孫であり本願寺の僧である蓮如(れんにょ)が、文明2年(1470年) 再興した真宗寺に『親鸞聖人絵伝』を贈る。
⇒親鸞聖人絵伝 堺市指定有形文化財
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談義と絵解き(談義と「談義本」/「親鸞聖人絵伝」(光照寺本)の成立/「蓮如上人絵伝」(芳沢寺本)の絵解き)
2015年01月23日
1470年 瑞渓周鳳の日本最初の外交史『善隣国宝記』完成
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1470(文明2)年の出来事

1470年 瑞渓周鳳(ずいけいしゅうほう)の日本最初の外交史『善隣国宝記(ぜんりんこくほうき)』完成
善隣国宝記(ぜんりんこくほうき)
日本最初の外交史
瑞渓周鳳(ずいけいしゅうほう)による漢文で書かれた外交資料集
同書は朝鮮、中国との間で交わされた外交文書を、日本初の外交史として年代順にまとめたもの。
上巻・・・古代から南北朝時代まで
垂仁天皇88年(西暦59年)から明徳3年/元中9年(1392年)までの中国・朝鮮との関係や僧侶の往来を中心とした外交史。
中巻・・・室町時代
応永5年(1398年)から文明7年(1475年)までの明や李氏朝鮮との外交文書。
下巻・・・室町時代
永享5年(1433年)から文明18年(1486年)までの外交文書。
瑞渓周鳳(ずいけいしゅうほう)
室町時代中期の臨済宗の僧、外交官
生誕 明徳2年/元中8年12月8日(1392年1月2日)
死没 文明5年5月8日()1473年6月3日
室町幕府6代将軍・足利義教、8代将軍・足利義政に重用され、文筆の才により室町幕府の外交文書の作成にあたった。


1470年 瑞渓周鳳(ずいけいしゅうほう)の日本最初の外交史『善隣国宝記(ぜんりんこくほうき)』完成
善隣国宝記(ぜんりんこくほうき)
日本最初の外交史
瑞渓周鳳(ずいけいしゅうほう)による漢文で書かれた外交資料集
同書は朝鮮、中国との間で交わされた外交文書を、日本初の外交史として年代順にまとめたもの。
上巻・・・古代から南北朝時代まで
垂仁天皇88年(西暦59年)から明徳3年/元中9年(1392年)までの中国・朝鮮との関係や僧侶の往来を中心とした外交史。
中巻・・・室町時代
応永5年(1398年)から文明7年(1475年)までの明や李氏朝鮮との外交文書。
下巻・・・室町時代
永享5年(1433年)から文明18年(1486年)までの外交文書。
瑞渓周鳳(ずいけいしゅうほう)
室町時代中期の臨済宗の僧、外交官
生誕 明徳2年/元中8年12月8日(1392年1月2日)
死没 文明5年5月8日()1473年6月3日
室町幕府6代将軍・足利義教、8代将軍・足利義政に重用され、文筆の才により室町幕府の外交文書の作成にあたった。
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2015年01月22日
1470年 後花園法皇死去
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1470(文明2)年の出来事

1470年 後花園法皇死去
後花園天皇(ごはなぞのてんのう)
室町時代の第102代天皇
在位 正長元年7月28日(1428年9月7日)~寛正5年7月19日(1464年8月21日)
誕生 応永26年6月18日(1419年7月10日)
崩御 文明2年12月27日(1471年1月18日)
後花園天皇が在位中、各地で農民や地侍の一揆が起こった。また『永享の乱』『嘉吉の乱』なども起きたが、これらに対して綸旨を発するなど政治的な役割を積極的に果たされた。
寛正元年(1460年)~寛正2年(1461年)に疫病、飢饉があり、人民が困苦していたにもかかわらず、将軍・足利義政は宴遊にふけったうえ、土木事業を行ない、その費用を人民から徴収した。
これを見た後花園天皇は、
残民(ざんみん)争いて首陽の蕨(わらび)を採る
処々炉を閉ざし竹扉(ちくひ)を鎖(とざ)す
詩興吟()は酸なりぎんずれ春二月
満城の紅緑誰のために肥ゆる
という詩をつくり将軍・足利義政の贅沢をいましめました。
後花園天皇は、寛正5年(1464年)、成仁親王(後土御門天皇)へ譲位して上皇となり院政を行ないました。『応仁の乱』が起こると中立の姿勢を保ち、京を戦場とする戦に最後まで反対の姿勢を貫きました。そんな中、病を発し亡くなられました。


1470年 後花園法皇死去
後花園天皇(ごはなぞのてんのう)
室町時代の第102代天皇
在位 正長元年7月28日(1428年9月7日)~寛正5年7月19日(1464年8月21日)
誕生 応永26年6月18日(1419年7月10日)
崩御 文明2年12月27日(1471年1月18日)
後花園天皇が在位中、各地で農民や地侍の一揆が起こった。また『永享の乱』『嘉吉の乱』なども起きたが、これらに対して綸旨を発するなど政治的な役割を積極的に果たされた。
寛正元年(1460年)~寛正2年(1461年)に疫病、飢饉があり、人民が困苦していたにもかかわらず、将軍・足利義政は宴遊にふけったうえ、土木事業を行ない、その費用を人民から徴収した。
これを見た後花園天皇は、
残民(ざんみん)争いて首陽の蕨(わらび)を採る
処々炉を閉ざし竹扉(ちくひ)を鎖(とざ)す
詩興吟()は酸なりぎんずれ春二月
満城の紅緑誰のために肥ゆる
という詩をつくり将軍・足利義政の贅沢をいましめました。
後花園天皇は、寛正5年(1464年)、成仁親王(後土御門天皇)へ譲位して上皇となり院政を行ないました。『応仁の乱』が起こると中立の姿勢を保ち、京を戦場とする戦に最後まで反対の姿勢を貫きました。そんな中、病を発し亡くなられました。
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2015年01月21日
1470年 朝鮮の使者が対馬の宗貞国に密航者を取り締まるよう要求
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1470(文明2)年の出来事

1470年 朝鮮の使者が対馬の宗貞国に密航者を取り締まるよう要求
朝鮮王国・成宗(ソンジョン)の使者が、対馬の守護大名・宗貞国(そうさだくに)に、当時激増していた密航者を取り締まるように要求。
※朝鮮側が許可した者以外の渡航禁止
※三浦(朝鮮半島南部)の日本人居住者数の制限
また、宗家に対して、渡航回数が約束の年間50隻をはるかに超えており、厳しく注意がなされた。
当時、朝鮮にとって貿易は利益を産み出すものではなく国庫を圧迫する要因となっていた。また朝鮮国内における通交者の滞在費・交易品の輸送も朝鮮側が担っており、こうした負担も無視出来ないものであった。


1470年 朝鮮の使者が対馬の宗貞国に密航者を取り締まるよう要求
朝鮮王国・成宗(ソンジョン)の使者が、対馬の守護大名・宗貞国(そうさだくに)に、当時激増していた密航者を取り締まるように要求。
※朝鮮側が許可した者以外の渡航禁止
※三浦(朝鮮半島南部)の日本人居住者数の制限
また、宗家に対して、渡航回数が約束の年間50隻をはるかに超えており、厳しく注意がなされた。
当時、朝鮮にとって貿易は利益を産み出すものではなく国庫を圧迫する要因となっていた。また朝鮮国内における通交者の滞在費・交易品の輸送も朝鮮側が担っており、こうした負担も無視出来ないものであった。