【応仁の乱のきっかけ】1466年12月、畠山義就が河内から出陣

夢子

2014年11月07日 09:46

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【応仁の乱の背景】管領・畠山家の後継問題





管領・畠山家の家督争いは、持富の子・政長が家督になり、持国の子・義就(よしなり)は京から追放された。これは前のページに書いたから、それを見てね。





1466年12月、畠山義就が河内から出陣

追放された畠山義就(よしなり)は、細川勝元と対抗する山名宗全・斯波義廉(しばよしかど)の支持を得て、約5,000の兵を率いて上洛。

畠山義就は山名宗全の後押しもあり、将軍・足利義政から赦免され目通りしたの。そして、即刻、河内・紀伊・越中の守護に返り咲いたの。

でもね、将軍・足利義政は畠山家の家督争いが起きたときに、細川勝元と山名宗全に、『畠山政長と義就の争いは二人だけに任せ、加勢してはいけない』と忠告したの。だって、勢力をもつ細川と山名が正面切って戦えば天下の大乱になることはわかりきっているからね。それなのに、山名宗全は畠山義就を支持したの。


つづく
【応仁の乱のきっかけ】足利義政、管領・畠山政長を罷免

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