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2015年01月16日

1469年 応仁の乱が九州地方に拡大

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icon51 1469(文明元)年の出来事



1469年 応仁の乱が九州地方に拡大

1469年 応仁の乱が九州地方に拡大

九州北部から中国地方西部を支配していた西軍の有力大名・大内政弘(おおうちまさひろ)。

【応仁の乱】1467年8月、西軍・大内政弘が周防から京に到着
【応仁の乱】1477年11月11日、西軍の武将たちが領地に帰還し引き分けに

大内政弘が京に出陣しているすきに、東軍の細川勝元の誘いに乗った九州の大友親繁、少弐政質らが大内政弘の叔父・教幸を擁して西軍の大内領を攻撃。

京で勃発した応仁の乱はついに九州まで拡大。




大内政弘(おおうちまさひろ)

室町時代の守護大名。大内氏第14代当主。

生誕  文安3年8月27日(1446年9月18日)
死没 明応4年9月18日(1495年10月6日)

応仁の乱では西軍・山名宗全方に属し、応仁元年(1467年)に上洛、その後10年間にわたり畿内各地を転戦する。

文明元年(1469年)、東軍方の大友親繁、少弐政質ら大内政弘の不在を突いて攻撃。翌1470年、大内政弘の叔父・教幸が赤間関(現・下関市)で謀反を起こす。重臣・陶弘護らの活躍で乱を鎮圧。叔父・教幸は自害。

応仁の乱収束後、山口に帰国。

文明10年(1478年)、九州に出陣して少弐氏を破り豊前・筑前を確保する。安芸、石見の豪族や国人らを臣従させ、北九州や瀬戸内海の海賊衆を平定するなど西国の支配権確立に力を傾ける。




京都を焦土と化した応仁・文明の乱は戦国時代の幕開けだったのか? 日野富子を元凶とする『応仁記』がもたらした定説は、近年見直されつつある。幕府内部や関東の政情不安にも光を当て、新たな応仁・文明の乱を描く。


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Posted by 夢子 at 11:11 │1469年