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2014年11月14日

【応仁の乱】1467年8月、足利義視が京から伊勢に逃走

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icon51 【応仁の乱】西軍・大内政弘が周防から京に到着



【応仁の乱】1467年8月、足利義視が京から伊勢に逃走

1467年8月、足利義視が京から伊勢に逃走


東軍の総大将に据えられた足利義視(あしかがよしみ)。この人は室町幕府8代将軍・足利義政の弟ね。次期将軍をめぐって兄弟で揉めているの。 ⇒足利将軍家の後継問題

この足利義視が突如京から伊勢へ行ってしまうの。

最初、【西軍】の一色義直(いっしきよしなお)のところに行き、次に北畠教具(きたばたけのりとも)のもとへ。

はっきりした理由はわからないんだけど、『西軍に通じるものがいる』という噂がたち、おびえて伊勢に逃げたって話しもあるよ。

理由はともかく、東軍の大将が逃げてしまったから、東軍の士気は下がってしまい・・・。



【応仁の乱】1467年8月、足利義視が京から伊勢に逃走

(後)北条というと小田原(豊臣秀吉による小田原征伐ね)がすぐに浮かんでくるけど、後北条の祖である北条早雲は最初、足利将軍家に仕えていたの。応仁の乱のころは足利義視に仕えていたから、一緒に伊勢に逃れたの。その後、足利義視は京に戻るんだけど、北条早雲は足利義視にはついていかず伊勢に残り別行動したの。伊勢から駿河に行き、今川家の家督相続問題を調停した後、京に戻るんだけどね。それが文明15年(1483年)だから、もう応仁の乱は終結しており、このときは9代将軍・足利義尚(よしひさ)に仕えるの。



つづく
【応仁の乱】1467年9月18日、南禅寺山で交戦


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Posted by 夢子 at 11:41 │応仁の乱