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2014年11月05日

【応仁の乱の背景】管領・斯波氏の後継問題

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icon51 【応仁の乱の背景】足利将軍家の後継問題






三管四識(さんかんししき)

管領・・・将軍に次ぐ地位で、将軍を補佐し、将軍の命令を直接受けて下に伝達する。この人たちは足利一門の有力守護である細川・斯波・畠山の三氏から選任され就任した。 この三つの一族を三管領(さんかんれい)という。

侍所長官(所司)・・・管領の次にえらい役職。京都の治安維持などにあたる。南北朝時代は有力守護が交代で任じられ家格が一定しなかったが、応永元年(1394年)以降は、一色・京極・土岐・山名の四氏が就任した。彼らのことを四識(ししき)という。






斯波(しば)氏

斯波氏は清和源氏、源義家(みなもとよしいえ)の子・義国を祖とする足利氏の有力一門。義家って八幡太郎のことだよ。

永享8年(1436年)、斯波氏(本家・武衛家)の8代当主・義郷(よしさと)が落馬で急死したため、家督は2歳の義健(よしたけ)が継いで9代当主となったの。彼は越前(福井県)、尾張(愛知県)、遠江(静岡県西部)の三国の守護となったけど、18歳という若さで亡くなってしまったの。まだ若かったから跡継ぎの子どもが居なくてね。

ここで、斯波氏の嫡流は途絶えてしまうの。でも、斯波氏は存続させなくちゃいけないから、斯波一門の大野持種(もちたね)の子・義敏(よしとし)を後継にしたの。

義敏は前当主・義健と同じ年だが、気が強くてね、幕府の命令にも従わなくて、ついには重臣たちと争って飛び出して伊勢貞親(いせさだちか、政所執事)を頼ったの。

義敏が出ていってしまったので、幕府は、寛正2年(1467年)、斯波一門の渋川吉鏡(よしかね)の子・義廉(よしかど)に斯波氏の相続を許したの。

ところが、のちに管領・細川勝元が義敏の罷免を幕府に願い出て、将軍・義政がこれを許しているの。

しかし応仁元年(1467年)1月、義廉(よしかど)は山名宗全を頼って再び家督を復帰し、管領となった。

この結果、斯波氏は、一家に当主が二人要ることになり、家臣も二派に分かれ戦うことになった。



つづく
【応仁の乱の背景】管領・畠山家の後継問題


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