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2014年11月03日

【応仁の乱の背景】1441年嘉吉の乱(かきつのらん)

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【応仁の乱の背景】1441年嘉吉の乱(かきつのらん)


室町幕府は足利尊氏が征夷大将軍に任命され幕府を開いた。

そして尊氏の子・義詮が2代将軍となり、その子・義満が3代将軍になった。



【応仁の乱の背景】1441年嘉吉の乱(かきつのらん)

室町幕府3代将軍・足利義満

1367年、父・義詮の死で家督を譲られ、翌1368年11歳で将軍となる。まだ子どもだったので、管領・細川頼之に補佐される。

1378~1379年ごろ、京都室町に『花の御所』を造り、将軍家の確立のための一歩を踏み出す。

義満は花の御所を造っただけでなく、南北朝を統一したり、勘合貿易をはじめたり、将軍の威力を示すために諸国の状況視察を行なったりしたの。そして金閣寺を建て、とても力をもった将軍だったの。このときが室町幕府の最盛期。

義満が亡くなると将軍の力が少しずつ弱くなっていき、それが応仁の乱に繋がっていくの。




【応仁の乱の背景】1441年嘉吉の乱(かきつのらん)

嘉吉元年(1441年)、嘉吉の乱(かきつのらん)

守護大名・赤松満祐が室町幕府6代将軍・足利義教を暗殺


1408年、義満が亡くなると、守護大名は再び力をつけ巨大化していくの。

だから、将軍の力はどんどん小さくなり・・・

そんな中、6代将軍・足利義教(よしのり)は将軍権力の回復を図り、各国の守護大名に対して圧力を強めたの。

管領の手元にあった政治の実権を取り戻し、4代将軍・義持(よしもち)以降中断されていた勘合貿易を再開したり、九州平定を成し遂げたり、比叡山の焼き討ちを行なったり・・・。

でも、有力守護大名の跡継ぎ決定に口をはさみ、自分の指示に従う者に跡継ぎにさせたり、自分の言うことを聞かない者は殺害したり・・・。だから、万人恐怖とか悪御所と呼ばれていたの。

そして最後は播磨・備前・美作の守護を務めた赤松満祐(あかまつみつすけ)に暗殺されてしまい。これが嘉吉の乱。


つづく
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Posted by 夢子 at 11:29 │応仁の乱