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2014年11月12日

【応仁の乱】1467年6月、将軍・足利義政が東軍・細川勝元に協力

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icon51 【応仁の乱】1467年5月28日、将軍・足利義政が停戦命令を出す






応仁元年(1467年)6月、将軍・足利義政が東軍・細川勝元に協力

【東軍】細川勝元将軍・足利義政のところに働きかけ、【西軍】山名宗全討伐命令を引き出し、官軍の証となる『牙旗(がき)』を得たの。きっとうまいこと言ったんだろうね。

そして、御土御門天皇後花園上皇を将軍邸『室町殿(むろまちどの)』に移して、ここに陣を構えたの。天皇、上皇、将軍がついていれば官軍だよね。これによって西軍は賊軍と呼ばれることに。

【西軍】山名方は山名宗全の邸宅を本陣としたので、両陣の位置関係から細川勝元らが【東軍】、山名宗全らが【西軍】と呼ばれるようになったの。今も京都に『西陣』ってあるけど、それはこの応仁の乱で西陣と言われたのが由来だよ。

官軍となった【東軍】は反撃に出て、小競り合いに勝ち、優勢に。


つづく
【応仁の乱】西軍・大内政弘が周防から京に到着
  

Posted by 夢子 at 11:21応仁の乱

2014年11月11日

【応仁の乱】1467年5月28日、将軍・足利義政が停戦命令を出す

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icon51 【応仁の乱】1467年5月、上京の戦い(かみぎょうのたたかい)




1467年5月28日、将軍・足利義政が停戦命令を出す

各地で行われた戦いにより、京では多くの屋敷や寺が焼失。火災は北は船岡山、南は二条通りまで延焼したの。

今と違い一度火がつくとあっという間に広がるからね。

さすがにこの事態はまずいと思い、将軍・足利義政は両軍に停戦を命令し、【東軍】細川勝元【西軍】山名宗全は戦いをやめたの。とはいっても一時的にやめただけ。このあとまたすぐに戦いがはじまるの。



つづく
【応仁の乱】1467年6月、将軍・足利義政が東軍・細川勝元に協力  

Posted by 夢子 at 10:49応仁の乱

2014年11月10日

【応仁の乱】1467年5月、上京の戦い(かみぎょうのたたかい)

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icon51 【応仁の乱】1467年、東軍、西軍の兵が京都に集結





1467年5月、上京の戦い(かみぎょうのたたかい)

応仁元年(1467年)5月24日
若狭などの守護を務める【東軍】武田信賢(のぶかた)は実相院を、【東軍】畠山政長の側近・成身院光宣(じょうしんいんこうせん)が正実坊を占拠し、【西軍】一色義直(いっしきよしなお)の屋敷を急襲したの。一色義直は反撃できず、西軍の大将・山名宗全の屋敷に逃げたんだけど、これを皮きりにに5月26日から27日にかけて各地で両軍が衝突。

【東軍】細川勝元の一族である備中守護・細川勝久(かつひさ)の屋敷には、【西軍】斯波義廉(しばよしかど)の家臣・朝倉孝景(あさくらたかかげ)甲斐敏光(かいとしみつ)らが攻めるが、赤松政則(あかまつまつのり)が加勢に駆けつけ、朝倉孝景らを退却された。
屋敷で抵抗していた細川勝久は屋敷を焼いて脱出し、一族の阿波守護・細川成之(しげゆき)の屋敷へ逃れた。



【東軍・・・細川方】
武田信賢(たけだのぶかた)
成身院光宣(じょうしんいんこうせん)
細川勝久(ほそかわかつひさ)
赤松政則(あかまつまつのり)


【西軍・・・山名方】
一色義直(いっしきよしなお)
斯波義廉(しばよしかど)
朝倉孝景(あさくらたかかげ)
甲斐敏光(かいとしみつ)




つづく
1467年5月28日、将軍・足利義政が停戦命令を出す  

Posted by 夢子 at 12:00応仁の乱

2014年11月09日

【応仁の乱】1467年、東軍、西軍の兵が京都に集結

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icon51 【応仁の乱】1467年1月18日、御霊合戦(ごりょうがっせん)





1467年、東軍、西軍の兵が京都に集結

応仁元年(1467年)1月の御霊合戦(ごりょうがっせん)は【西軍】畠山義就の勝利で終わった。その後はしばらくは表面上は平静が保たれたんだけど、その裏で【東軍】の細川勝元と【西軍】の山名宗全は領国から軍勢を集めたの。

表向きは平穏でも裏では着々に戦いの準備が進められたんだよね。最終的に細川方16万、山名方11万の兵が京に集結したの。


【東軍】細川勝元方
細川一族、畠山政長、斯波義敏(しばよしとし)、赤松政則(あかまつまさのり)、京極持清(きょうごくもちきよ)、武田国信(くにのぶ)ら総勢24か国16万人。

【西軍】山名宗全方
山名一族、畠山義就、斯波義廉(しばよしかど)、一色義直(いっしきよしなお)、土岐成頼(ときしげより)、六角高頼(ろっかくたかより)ら総勢20か国11万人。



この時の様子を、奈良興福寺の僧・尋尊(じんそん)は、『京都、ことのほか物騒』と書いているよ。

全国からたくさんの兵が集まってきたら、物騒だよね。


つづく
【応仁の乱】1467年5月、上京の戦い(かみぎょうのたたかい)  

Posted by 夢子 at 11:11応仁の乱

2014年11月08日

【応仁の乱】1467年1月18日、御霊合戦(ごりょうがっせん)

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icon51 【応仁の乱のきっかけ】足利義政、管領・畠山政長を罷免





畠山家の当主の地位を奪われた政長は自分の屋敷に火をかけて、上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)に陣取ったの。これは1467年1月17日の説と18日説があるよ。どちらにしても戦いの前に政長は自分の家を焼いて、約2,000の兵を率いて上御霊神社に陣取ったのは確かだよ。

1月17日、将軍・足利義政細川勝元に、『畠山政長に加勢するのはダメだ』と命令。すると細川勝元は『山名宗全畠山義就(よしなり)に加勢しないなら俺も畠山政長に加勢しない』と山名宗全の畠山義就援助中止を条件に承諾したの。






応仁元年(1467年)1月18日 御霊合戦(ごりょうがっせん)

【東軍】畠山政長と【西軍】畠山義就が上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)で激突。

【西軍】畠山義就の勝利。




【東軍】畠山政長が上御霊神社に陣取ると、【西軍】畠山義就も宿敵・政長を討ち取るため軍勢を率いて上御霊神社に進軍。政長軍を圧倒し退却に追い込んだ。

政長軍は必死に戦ったけど、頼りにしていた細川勝元の加勢はなく孤軍奮闘したけど、義就軍の攻撃に耐えられずに逃げ延びたの。細川勝元に屋敷に逃げたの。



上御霊神社(御霊神社)
京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町495番地

※『応仁の乱勃発地』の碑あり。京中の者 ちまたに立て合戦を現物



つづく
【応仁の乱】1467年、東軍、西軍の兵が京都に集結  

Posted by 夢子 at 10:39応仁の乱

2014年11月07日

【応仁の乱のきっかけ】将軍・足利義政、管領・畠山政長を罷免

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icon51 【応仁の乱のきっかけ】1466年12月、畠山義就が河内から出陣





将軍・足利義政、管領・畠山政長を罷免

応仁元年(1467年) 正月2日は、年の初めで、将軍が管領邸を訪れる日だったの。これは恒例なので、管領・畠山政長邸では準備を整え、将軍の訪問を待っていたの。でも、急に取りやめになり、そして、『しばらくの間、幕府に出てこなくていい』と言われてしまったの。

あまりの突然のことで畠山政長はびっくりしただろうね。

その3日後、畠山義就(よしなり)がなんと山内宗全の屋敷を借りて大宴会を開いたの。それには将軍・足利義政は出席したの。それも諸将も一緒に連れてね。

畠山義就は、畠山政長が住んでいる屋敷の受け渡しを将軍・足利義政を願い出て、それも認められたの。でも、畠山政長はそんなこと突然言われてもウンと言わないよね。自分が住んでいる家を突然明け渡せと言われてもね。それでイヤだときっぱり拒否したの。

そしたら、将軍・足利義政が怒ってね。『俺の言うことが聞けないのかicon101 畠山政長、おまえは管領も罷免だicon77』と。

これらはすべて山名宗全の差し金と言われている。


つづく
【応仁の乱】1467年1月18日、御霊合戦(ごりょうがっせん)  

Posted by 夢子 at 10:09応仁の乱

2014年11月07日

【応仁の乱のきっかけ】1466年12月、畠山義就が河内から出陣

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icon51 【応仁の乱の背景】管領・畠山家の後継問題





管領・畠山家の家督争いは、持富の子・政長が家督になり、持国の子・義就(よしなり)は京から追放された。これは前のページに書いたから、それを見てね。





1466年12月、畠山義就が河内から出陣

追放された畠山義就(よしなり)は、細川勝元と対抗する山名宗全・斯波義廉(しばよしかど)の支持を得て、約5,000の兵を率いて上洛。

畠山義就は山名宗全の後押しもあり、将軍・足利義政から赦免され目通りしたの。そして、即刻、河内・紀伊・越中の守護に返り咲いたの。

でもね、将軍・足利義政は畠山家の家督争いが起きたときに、細川勝元と山名宗全に、『畠山政長と義就の争いは二人だけに任せ、加勢してはいけない』と忠告したの。だって、勢力をもつ細川と山名が正面切って戦えば天下の大乱になることはわかりきっているからね。それなのに、山名宗全は畠山義就を支持したの。


つづく
【応仁の乱のきっかけ】足利義政、管領・畠山政長を罷免
  

Posted by 夢子 at 09:46応仁の乱

2014年11月06日

【応仁の乱の背景】管領・畠山家の後継問題

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icon51 【応仁の乱の背景】管領・斯波氏の後継問題




畠山(はたけやま)氏

三管領の一族。

管領・・・将軍に次ぐ地位で、将軍を補佐し、将軍の命令を直接受けて下に伝達する。この人たちは足利一門の有力守護である細川・斯波・畠山の三氏から選任され就任した。 この三つの一族を三管領(さんかんれい)という。





当主・畠山持国(はたけやまもちくに)は、河内(大阪府)、紀伊(和歌山県)、越中(富山県)三国の守護職をもち、細川勝元と互いに管領の要職について幕府の体制を固めた。

しかし、彼には初め実子がなく、弟・持富(もちとみ)を養子にしたの。ところが、のちに側室に義就(よしなり)が生まれたので家督を譲り、持富を廃嫡したの。これって、将軍・義政のところと一緒だよね(⇒足利将軍家の後継問題)。だから畠山家もお家騒動が起こるの。

持国は我が子・義就に家督を譲ったんだけど、重臣たちは納得しなかったの。それでごたごたが起きるんだけど、重臣のなかには持国の処理に不満をもち、持富の子・弥三郎(死没)やその弟・政長を家督にしようと計画し、細川勝元の援助を受けて、持国を隠居させるとともに、義就を廃嫡し、享徳3年(1454年)8月、政長を畠山家の当主としたの。そして寛正5年(1464年)11月、細川勝元の後任の管領に就任したの。

ここで収まればよかったんだけど、廃嫡、追放された義就がだまっていないんだよね。

追放された義就は山名宗全を頼って再び上洛し、文正元年(1466年)12月、赦されて将軍・義政に目通りするんだけど・・・

ここから、いよいよ応仁の乱の幕開け。


つづく
【応仁の乱のきっかけ】1466年12月、畠山義就が河内から出陣
  

Posted by 夢子 at 11:40応仁の乱

2014年11月05日

【応仁の乱の背景】管領・斯波氏の後継問題

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icon51 【応仁の乱の背景】足利将軍家の後継問題






三管四識(さんかんししき)

管領・・・将軍に次ぐ地位で、将軍を補佐し、将軍の命令を直接受けて下に伝達する。この人たちは足利一門の有力守護である細川・斯波・畠山の三氏から選任され就任した。 この三つの一族を三管領(さんかんれい)という。

侍所長官(所司)・・・管領の次にえらい役職。京都の治安維持などにあたる。南北朝時代は有力守護が交代で任じられ家格が一定しなかったが、応永元年(1394年)以降は、一色・京極・土岐・山名の四氏が就任した。彼らのことを四識(ししき)という。






斯波(しば)氏

斯波氏は清和源氏、源義家(みなもとよしいえ)の子・義国を祖とする足利氏の有力一門。義家って八幡太郎のことだよ。

永享8年(1436年)、斯波氏(本家・武衛家)の8代当主・義郷(よしさと)が落馬で急死したため、家督は2歳の義健(よしたけ)が継いで9代当主となったの。彼は越前(福井県)、尾張(愛知県)、遠江(静岡県西部)の三国の守護となったけど、18歳という若さで亡くなってしまったの。まだ若かったから跡継ぎの子どもが居なくてね。

ここで、斯波氏の嫡流は途絶えてしまうの。でも、斯波氏は存続させなくちゃいけないから、斯波一門の大野持種(もちたね)の子・義敏(よしとし)を後継にしたの。

義敏は前当主・義健と同じ年だが、気が強くてね、幕府の命令にも従わなくて、ついには重臣たちと争って飛び出して伊勢貞親(いせさだちか、政所執事)を頼ったの。

義敏が出ていってしまったので、幕府は、寛正2年(1467年)、斯波一門の渋川吉鏡(よしかね)の子・義廉(よしかど)に斯波氏の相続を許したの。

ところが、のちに管領・細川勝元が義敏の罷免を幕府に願い出て、将軍・義政がこれを許しているの。

しかし応仁元年(1467年)1月、義廉(よしかど)は山名宗全を頼って再び家督を復帰し、管領となった。

この結果、斯波氏は、一家に当主が二人要ることになり、家臣も二派に分かれ戦うことになった。



つづく
【応仁の乱の背景】管領・畠山家の後継問題
  

Posted by 夢子 at 16:43応仁の乱

2014年11月04日

【応仁の乱の背景】足利将軍家の後継問題

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icon51 【応仁の乱の背景】室町幕府8代将軍・足利義政






足利将軍家の後継問題

8代将軍・義政と正室・日野富子に間に男子が誕生。

義政にはすでに側室との間に子どもがいたが、いずれも女の子だったため、嫡男誕生を喜んだ。しかし、誕生してすぐに死んでしまった。

『赤子の死は、義政の妾・お今が正室の座を奪いとるために、富子の男子出生を呪ったからだ』という風評が世間に広まり、正室・富子は怒り、お今を琵琶湖の沖ノ島へ流し、殺してしまう。のちに富子はお今の亡霊に悩まされることになる。

この後、義政はまともに政治をせず、邸宅や日本庭園の造営や猿楽、酒宴に溺れていった。このような状態で、義政と富子の間に子どもはできず・・・。




そのころ、義政の弟、義尋(ぎじん)は出家し、天台宗浄土寺門跡を継いでいた。その義尋(のちの義視)を義政は養子にして跡継ぎにしようとした。

でも、義尋(のちの義視)はこれを嫌がったの。義政はこの時30歳だから、まだまだ子どもができる可能性があるからね。もし、自分が義政の養子になって将軍になったあとに、義政に子どもができたら揉めるからね。

それに、この時代、身分の高いお坊さんは豊かな暮らしをしていたから、わざわざ今の暮らしを捨ててまで義政の養子になりたくなかったんだと思う。

でも、義政は粘りに粘り説得したの。そして、『たとえ自分に男子が生まれて後継にしない』と義尋(のちの義視)に約束をして、幕府の実力者・細川勝元を後見人にすることで納得させたの。寛正5年(1464年)12月、正式に還俗し義視と名乗ったの。そして義政の後継者として順調に出世していったんだけど・・・。




なんと、翌寛正6年(1465年)11月に義政と富子の間に男子・義尚が誕生したの。弟の義美を養子にして後継者にすると決めたのに、義政は子どもを作ってしまったんだよね。揉めるよね、当然揉めるよね。母・富子は当然だけど我が子・義尚を次期将軍にしたいからね。

こんな状態になり、義政はなんと家出icon67 義政ってどうしようもないダメ将軍なの。家出して趣味の庭いじりや建築に没頭するの。その代表が銀閣寺。政治家としてはダメダメなんだけど、庭いじりや建築の才能は抜群だったの。





話しを戻すね、義視が後継者になると決まったとき、後見人は細川勝元に決まったんだけど、富子は子・義尚を後継者にするために、嘉吉の乱で活躍した山名宗全を後見人にしたの。

ここで、義視&細川勝元 vs 義尚&山名宗全 という対立軸が出来上がった。








ところが、義政の側近が『義視は将軍(義政)に対して殺意を持っている』と告げ口。これをきっかけに義政の義視に対する態度が大きく変わり、義視を取り除こうとするの。これを事前に察知した義視は細川勝元の屋敷に避難。しかし、勝元は山名宗全を倒すのに義政を自分のほうに抱えこんだほうがいいと考え、義視を突き放してしまうの。手を組んだはずが仲たがいで、義視×勝元となる。

山名宗全はこの状況から、義政や勝元が義視を見放したことは、自分の義尚後見の意味もなくなると考え、また自分が次期将軍を決めるための義政抱かえこみも不可能と考え、義視を自分の陣営に迎え入れたの。ここで義視&宗全の図式ができあがる。

将軍を補佐する管領・細川勝元と、勝元に匹敵する勢力をもつ山名宗全。両勢力は全国の守護や土豪たちを巻き込んで大乱に発展していく。


つづく
【応仁の乱の背景】管領・斯波家の後継問題
  

Posted by 夢子 at 11:52応仁の乱

2014年11月03日

【応仁の乱の背景】室町幕府8代将軍・足利義政

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icon51 【応仁の乱の背景】1441年嘉吉の乱(かきつのらん)






室町幕府6代将軍・足利義教(よしのり)が暗殺されると、嫡男の義勝(よしかつ)が7代将軍に。

でも、義勝は9歳で満足な政治ができるはずもなく・・・。しかも2年後に亡くなってしまい。死因については落馬、暗殺説もあるけど、赤痢による病死説が有力。

幼い義勝に当然子どもはおらず、8代将軍には弟の足利義政(よしまさ)が就任。





室町幕府8代将軍・足利義政(よしまさ)

父・6代将軍・義教、母・日野重子

兄・義勝の早世で、8歳で8代将軍となる。当初は管領・畠山持国、細川勝元が幕政を行なったが、その後は親政を強化、養育係の政所執事・伊勢貞親(さだちか)を中心に管領や守護大名を抑えた。

その後大名たちが共同して、1466年に伊勢貞親を失脚させると、義政の政治的基盤は弱体化。

1467年の畠山氏の家督争いについては実力による解決を容認。

1473年、嫡子・義尚(よしひさ)に将軍職を譲るが、義尚の政務には関与し続けた。


続く
【応仁の乱の背景】足利将軍家の後継問題

  

Posted by 夢子 at 12:05応仁の乱

2014年11月03日

【応仁の乱の背景】1441年嘉吉の乱(かきつのらん)

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室町幕府は足利尊氏が征夷大将軍に任命され幕府を開いた。

そして尊氏の子・義詮が2代将軍となり、その子・義満が3代将軍になった。





室町幕府3代将軍・足利義満

1367年、父・義詮の死で家督を譲られ、翌1368年11歳で将軍となる。まだ子どもだったので、管領・細川頼之に補佐される。

1378~1379年ごろ、京都室町に『花の御所』を造り、将軍家の確立のための一歩を踏み出す。

義満は花の御所を造っただけでなく、南北朝を統一したり、勘合貿易をはじめたり、将軍の威力を示すために諸国の状況視察を行なったりしたの。そして金閣寺を建て、とても力をもった将軍だったの。このときが室町幕府の最盛期。

義満が亡くなると将軍の力が少しずつ弱くなっていき、それが応仁の乱に繋がっていくの。






嘉吉元年(1441年)、嘉吉の乱(かきつのらん)

守護大名・赤松満祐が室町幕府6代将軍・足利義教を暗殺


1408年、義満が亡くなると、守護大名は再び力をつけ巨大化していくの。

だから、将軍の力はどんどん小さくなり・・・

そんな中、6代将軍・足利義教(よしのり)は将軍権力の回復を図り、各国の守護大名に対して圧力を強めたの。

管領の手元にあった政治の実権を取り戻し、4代将軍・義持(よしもち)以降中断されていた勘合貿易を再開したり、九州平定を成し遂げたり、比叡山の焼き討ちを行なったり・・・。

でも、有力守護大名の跡継ぎ決定に口をはさみ、自分の指示に従う者に跡継ぎにさせたり、自分の言うことを聞かない者は殺害したり・・・。だから、万人恐怖とか悪御所と呼ばれていたの。

そして最後は播磨・備前・美作の守護を務めた赤松満祐(あかまつみつすけ)に暗殺されてしまい。これが嘉吉の乱。


つづく
【応仁の乱の背景】1441年嘉吉の乱(かきつのらん)
  

Posted by 夢子 at 11:29応仁の乱