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2014年10月31日

1467年 足利学校移転

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icon51 1467(応仁元)年の出来事






1467年 足利学校(あしかががっこう)移転


足利学校は日本で一番最初にできた学校。

創建については、奈良時代という説もあるし、平安時代という説もあり、はっきりわからない。

足利学校は室町時代の最初のころには衰退してしまうんだけど、永享4年(1432年)に関東管領の上杉憲実(うえすぎのりざね)が、円覚寺(神奈川県鎌倉市)から僧・快元(かいげん)を招いて再興したの。

そして、応仁元年(1467年)に現在の栃木県足利市に移転されたの。

足利学校では儒学、易学が教えられ、戦国時代には全国から多くの学生が集まり勉強したんだよ。ここで易学等の実践的な学問を身に付け、戦国武将に仕えると人もたくさんいたの。

天文18年(1549)、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルは足利学校のことを、『日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学』と世界に紹介したんだよ。





戦国の乱世でも一生懸命勉強した人はたくさんいる。

平和な世の中に生まれた私たちはもっともっと勉強しなくちゃね。



史跡足利学校
栃木県足利市昌平町2338  

Posted by 夢子 at 12:251467年

2014年10月31日

1467年 雪舟(せっしゅう)が明(中国)に留学

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1467年 雪舟(せっしゅう)が明(中国)に留学

雪舟は室町時代に活動した水墨画家であり禅僧。

この人は幼いころにお寺に預けられたの。そのときの有名なエピソードがあるよ。

雪舟はお寺に入ったんだから、お経を読まなくちゃいけないのに、お経は読まずに、絵ばかりかいていたの。だから和尚さんに叱られて、罰として柱に縛られてしまったの。それで雪舟は泣いてしまったの。床に落ちた涙を使って足でネズミの絵を描いたの。その絵がとても上手で雪舟は縄を解かれ、絵を描くことを許されたの。

これは後世の作り話という説もあるんだけど、こんなエピソードが残るぐらい子どものころから絵が上手だってだろうね。

その後、雪舟は京都の相国寺(しょうこくじ)で修行し、禅の修行とともに絵も学んだの。

そして応仁元年(1467年)、守護大名の大内氏の庇護のもと、48歳で遣明船に乗って中国・明に渡り、むこうで2年間本格的に水墨画を学んだの。

帰国後は明で学んだ成果を発揮して多くの名画を書いたんだよ。






一説によると室町時代の平均寿命は33歳と言われてる。

雪舟が明に渡ったのは48歳。当時の平均寿命から想定すると、かなりの高齢で明に渡ったんだよね。

その気力、体力、精神力はすごいものだと思う。人間いくつになってもやる気があれば、学びたいという気持ちが強ければ年齢は関係ないね。
  

Posted by 夢子 at 11:591467年

2014年10月30日

1467年6月7日 京の祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)が中止になる

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1467年6月7日、京の祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)が中止になる


※毎年7月に京都の八坂神社(祇園社)で行われる『祇園祭』。これは京の夏の風物詩なのでみなさん知っていると思います。





※この祇園祭は1100年以上も前にはじまりました。平安初期の貞観(じょうがん)11年(869年)にはじまったから、当時すでに600年近く続いていた一大イベントが応仁の乱が勃発したことで中止になったの。

※じゃ、なぜこの祇園祭が行われるようになったかというと、無病息災を祈るため。平安時代は今のようにインフラ整備も整っていなかったから、梅雨時期になると疫病が蔓延したの。だから疫病を流行させる神・牛頭天王(ごずてんのう)を鎮めるために行われた祭礼で、当時は祇園祭ではなく『祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)』と言われたの。

※応仁の乱は文明9年(1477年)で終わるんだけど、この祇園祭は応仁の乱が終わってもすぐに復活できなかったの。当時、祇園社は比叡山延暦寺の支配下にあったんだけど・・・。延暦寺と室町幕府の関係が悪くて中止や延期が続いたの。元亀2年(1571年)に織田信長が延暦寺を焼打ちしてからは毎年行われるようになったの。でもね、第二次世界大戦のときは中止になった。
戦争が起きると祭りが中止になるから、もう絶対に戦争はしちゃだめだよね。

※織田信長の比叡山延暦寺の焼き討ちはむごいものなんだけど、祇園祭が復活できたことはよかった。
  

Posted by 夢子 at 10:541467年

2014年10月29日

1467年3月23日 連歌の解読本『吾妻問答(あずまもんどう)』完成

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1467年3月23日、吾妻問答(あずまもんどう)完成


※当時、貴族や武士の間で連歌(れんが)が流行。

※連歌(れんが)は、和歌の上の句(五・七・五)と下の句(七・七)を複数の人たちで交互に作り、ひとつの詩にするの。

※Aさんが上の句(五・七・五)を作ったら、次はBさんが下の句(七・七)を作るの。これをリレー方式でどんどん繋いでいくんだけど、即興でやるの。すごいよねー 当時の人たちの頭の良さ、発想力、想像力はすごいicon67 私なんて和歌も読めない(^^;;

※吾妻問答というタイトルは、関東で書いたから、吾妻ってつけたんだって。なんか吾妻と聞くと鎌倉時代が思い浮かぶけど、この吾妻問答は鎌倉時代とは関係ないよ。

※吾妻問答を書いたのは連歌師の宗祇(そうぎ)さん。この人は連歌界の第一人者。
  

Posted by 夢子 at 14:301467年

2014年10月29日

1467年1月18日 応仁の乱がはじまる

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応仁の乱(おうにんのらん)


※応仁の乱は室町時代最大の戦争です。

※1467年1月18日に京の都ではじまり、1477年まで11年間も続き、京の町はぼろぼろになってしまったの。

※足利将軍の後継者争いや守護大名の家督争いが大きな大きな戦争に発展しまったの。

※簡単に分けると、『東軍・細川勝元 対 西軍・山名宗全』の戦いなんだけど、この二人、応仁の乱の前は仲良しだったの。

細川勝元は山名宗全の養女を妻に。そして山名宗全の息子を養子にしたの。だから親戚同士なの。

でも、山名宗全が大きな力をもつようになると、次第に細川さんと山名さんの仲は悪くなって対立するようになったの。

そこに足利将軍家の後継者争いや畠山家の家督争いがきっかけで全面戦争突入icon08







人の世むなし 応仁の乱


これはごろ合わせ。有名だから知っている人も多いと思いますが・・・


人の世むな=1467年


11年間も戦争が続いたから、『人の世はむなしいね』と嘆いたことが多かったと思います。







今の京都からは想像もできないけど、応仁の乱の時は何もかも焼け落ちてしまい、都が廃墟のようになったんだって・・・。

戦はよくないね。平和の世に生まれたことに感謝です。  

Posted by 夢子 at 09:471467年